1855年2月9日の朝、イングランド南部デヴォン(Devon)地方の人々は、真っ白な雪に埋もれた田園と向き合った。そして、誰にも説明のつかないものとも向き合った。雪に覆われた野原を横切って、一筋の足跡が続いていたのだ。足跡の一つひとつは割れた小さな蹄の形をしており、まるで二本足の生きものが夜通し歩いていったかのように、前へ前へと整然と並んで刻まれていた。その跡は、あちこちさまよったり引き返したりすることがなかった。庭の塀を越え、屋根の上を渡り、干し草の山と凍った川を越え、排水管の口から入って反対側へ抜けながら、まっすぐに進んでいった。人々の話では、何十キロも続いていたという。エクス(Exe)川の河口沿いに連なるいくつもの村で、怯えた住民たちは口をそろえて同じことをささやいた。ゆうべ、悪魔が自分たちのあいだを歩いていったのだ、と。イングランドの民間伝承のなかでも、最も奇妙で最も根強い謎の一つとして残る「悪魔の足跡」の物語である。

雪の降った翌朝
雪は2月8日の夜のあいだに激しく降り、夜明けごろにはデヴォン南部の野原も小道も屋根も、清らかな白い雪にすっぽりと覆われていた。その乱れのない雪の上で、足跡は見つかった。この地方に広まった話によれば、小さな足跡がとぎれることなく連なった跡が、野原を横切って続いていたという。足跡の大半は長さおよそ10センチ、幅およそ7.6センチで、たがいに20センチから40センチほどの間隔をあけ、ほぼ完全に一列に刻まれていた。跡の一つひとつが蹄の跡に似ており、多くの人の目には、その形が山羊や驢馬の足のように真ん中で割れているように見えた。
人々を不安にさせたのは、跡の形だけではなく、それが進んでいった様子だった。ふつうの獣ならば、あちこちさまよい、立ち止まり、脇へそれ、足跡を対や群れで残す。ところがこの跡は、そのどれもしなかった。一歩をすぐ前の足の前へまっすぐ踏み出しながら、何キロもとぎれない一列となって進んでいった。何かの目的を抱いて歩く人のように、一定して、くっきりとしていた。噂は農場から農場へ、村から村へと瞬く間に広がり、ほどなくデヴォンの半分が、雪原の上のあの不気味な跡について話しているように思われた。

屋根も塀も干し草の山も越えて
足跡が、ただ開けた野原を横切っただけであったなら、さまよう獣の跡くらいに思って片づけられたかもしれない。この一件を本物の騒ぎに変えたのは、その跡がどこへ向かったかだった。跡は三十を超える地点で目撃されたが、その道すがら、行く手のあらゆる障害物を意に介さないようだった。高い塀が立ちはだかると、足跡はその上に現れ、反対側へと下って続いた。野原に干し草の山がそびえていると、跡はそれを回り込むのではなく、片側から登り、反対側へ下りていったという。何より背筋の凍ることに、その跡は雪に覆われた家々の屋根の上を横切って続いていた。まるでそれを刻んだ何かが、高さも重力もいっさい気にかけず、建物の上を歩いていったかのように。
跡は排水管の口までまっすぐ続くこともあった。ある排水管は、足跡の幅と変わらぬ、わずか10センチほどのものだった。それが反対側でまた現れたのだから、まるでその大きさの獣なら到底入れない管を、歩いて通り抜けたかのようだった。伝わる話では、跡は川や河口の水も足を止めずに渡り、向こう岸に現れてはさらに進んでいったという。こうした細部を寄せ集めると、ありふれた説明はどれも空虚に感じられた。穴熊も、狐も、さまよう仔馬も、こんなふうには歩かない。こうして凍りついたデヴォンの村々で、人々はおよそありふれてなどいない説明に手を伸ばしはじめたのだ。

恐怖に陥った村々
ロンドンの『タイムズ(The Times)』は、トプシャム(Topsham)、リムプストン(Lympstone)、エクスマス(Exmouth)、ティンマス(Teignmouth)、ドーリッシュ(Dawlish) — エクス川の河口沿いに連なる村々に「相当な騒動」が起きたと報じた。悪魔への信仰がまだ生々しく、長い冬の夜を蠟燭と灯りだけに頼っていた時代、雪原を横切って進む割れた蹄の跡は、人々を恐怖で満たすのに十分だった。日が暮れてから家の外へ出るのを恐れる者もいた。男たちは群れをなし、武器を手に取って跡を追って出ていった。それを刻んだものが何であれ見つけ出したいと願いながら — あるいは、見つけてしまうことを恐れながら。
聖職者たちも、この一件から身を引くわけにはいかなかった。ある記録によれば、この問題は「説教壇から論じられた」。つまり牧師たちが、すでにその跡に怯えていた信徒たちを前に、それについて説教したのである。ある聖職者、G・M・マスグレイヴ(G. M. Musgrave)牧師は、教区民のあいだに広がる恐怖の空気をひどく案じたあまり、自分なりの作り話で彼らをなだめることにした — その話は後で出てくる。ここで大切なのは、その恐怖がいかに深かったかである。これは迷信にとらわれた数人の個人の話ではなく、村ぜんたいが数日にわたり、超自然の来訪者が雪に覆われた通りを闇のなかで通り過ぎたという確信にとらわれた出来事だった。

説明が始まる
報せが外の世界に届くと、さまざまな説が次々と押し寄せた。どれもこの悪魔じみた跡を、自然な何かへと引き下ろそうとする試みだった。のちに「恐竜(dinosaur)」という言葉を生み出したことで知られる博物学者リチャード・オーウェン(Richard Owen)卿は、1855年3月、ロンドンから意見を寄せた。彼はその跡が穴熊によるものだと主張した。「この島に棲む唯一の蹠行性(しょこうせい)四足獣」というのが彼の言い分だった。雪のなかで餌をあさる複数の穴熊が、一人の歩行者ではなく、散らばった跡を残したのだという理屈である。また別の者たちは、それが野ねずみのしわざだと言った。野ねずみは柔らかな雪の上を跳ねて進むとき、不思議なことに蹄に似た跡を残すことがあり、ある寄稿者はその春、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース(Illustrated London News)』に、そうした跡がどう生じるかを示す絵を送ってきた。
もっと奇妙な発想もあった。ある話は、シドマス(Sidmouth)の私設動物園からカンガルーが一つがい逃げ出し、野原を跳ねて横切ったというものだった。ずっと後に記録された別の話は、デヴォンポート(Devonport)の海軍造船所から実験用の気球が係留の鎖をぶら下げたまま解き放たれ、その垂れ下がった鎖が雪の上に奇妙な跡を刻みながら何キロも漂い、ホニトン(Honiton)付近に降り立ったというものだった。そしてこれらすべての底には、最も単純な説明が横たわっていた。半ば溶けてまた凍りついたありふれた獣の跡が、恐怖というレンズを通して目撃され、噂によって一つにつなぎ合わされ、ありえない、とぎれのない一筋の跡へと仕立て上げられたのだ、という説明である。

なぜどの答えも成り立たなかったのか
問題は、どの説明も物語ぜんたいには当てはまらなかったことにある。穴熊や野ねずみでは、散らばった跡は説明できても、何十キロもとぎれず一列に続いたという跡も、高い塀や屋根の上の跡も説明できなかった。逃げ出したカンガルーは記憶に残る話ではあったが、その動物園が実際に存在したことを裏づけるものはほとんどない。しかも、この説を広めたマスグレイヴ牧師その人が、のちに、自分はそれを本気で信じたことはなかったと打ち明けている。怯えた教区民を悪魔への信仰から引き離そうとして、カンガルーの話を持ち出したにすぎない、という告白だった。解き放たれた気球は印象的な絵だが、漂う気球が、障害物を越え水を渡りながら、間隔のそろった整然たる一筋の跡を残すはずもない。
より深い問題は、証拠そのものにあった。のちの研究者たちが、残された手紙や新聞記事 — 20世紀にデヴォンの牧師ヘンリー・エラコム(Henry Ellacombe)の文書のなかから見つかった資料を含む — を調べたところ、目撃談どうしが食い違っていた。足跡は大きさがすべて同じではなかった。一夜のうちにすべて刻まれたわけでもなかった。実のところ、その跡が州ぜんたいを横切って完璧な一列に続いていたわけでもなかった。異なる原因によって異なる夜に作られた幾筋もの跡が、語り継がれるうちに一つの壮大な跡へとまとめ上げられたのだろう — 実際に雪の上に横たわっていた何よりも、はるかに整然と、はるかに恐ろしい姿に。だが、あの断片この断片をすべて説明しきった慎重な懐疑論者たちでさえ、この一件がぜんたいとして完全に解かれたことは一度もなかったと認めざるをえなかった。

終わらない足跡
悪魔の足跡は、その種の唯一の跡ではなかった。それより15年前の1840年、『タイムズ』は、スコットランド高地の19キロほどを横切って似たような蹄形の跡が続いたという報道を載せている。ヨーロッパ大陸からの寄稿者たちは、そうした跡が山でときおり現れ、そこでも超自然の力のしわざとされていると手紙に書き送ってきた。そしてその後も数十年にわたり、人里離れたスコットランドの谷から、デヴォンの静かな片隅まで、人々はときおり降ったばかりの雪の上に一筋の跡を見つけ、1855年に彼らの先祖が感じたのと同じ冷たい戦慄を覚えたのだった。そのたびに自然な説明が差し出されたが、そのたびに、あの整然として目的を帯びたような一筋の何かは、完全に説明されることをかたくなに拒んだ。
今日、私たちが確かに言えるのは、これだけだ。1855年のある2月の夜、デヴォン南部の村々に雪が降り、朝になると人々はその雪のなかに、小さな割れた足跡の一筋を見つけた。塀と屋根と干し草の山を越え、排水管の口から入って反対側へ抜け、怯えた村々を一つずつ過ぎながら、何キロも続いた跡だった。博物学者たちは穴熊と野ねずみのせいにし、怯えた一人の聖職者はカンガルーのせいにし、のちのある著述家は逃げ出した気球のせいにした。そのどれも、けっしてぴたりとは当てはまらなかった。こうしてデヴォンの雪のなかのあの一筋の足跡は、刻んだ者の名も明かされず、その目的も知られぬまま、歴史を横切って歩きつづける — 結局はどこへも、誰のもとへもたどり着かなかった、一筋の足どりとして。




