一人の人間が殺された。そして犯人は、その部屋にいた二人のうちのどちらかだった。
ところが二人は互いを指さした。「あいつが殺した」と。目撃者はいなかった。部屋にいたのは三人だけで、そのうちの一人はもう口を開くことができなかった。長い間、誰一人として殺人罪で罰せられなかった。真実が国境を越えて戻ってくるまでに、19年がかかった。

写真: Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.0

私はこの件を、供述の対照表として作りはじめた。左の欄にパターソンの言い分、右の欄にリーの言い分を写し、食い違う箇所に印をつけていく。ふつうこの作業をすれば、どちらかの列に無理が溜まってくる。この二枚は、最後まで対称のままだった。互いを指す矢印が二本、同じ強さで向かい合っているだけの表。どちらの列にも、被害者の視点を書き込む欄がない。
1997年4月3日、梨泰院の夜
1997年4月3日の夜。ソウル龍山区・梨泰院のあるハンバーガー店のトイレで、22歳の大学生チョ・ジュンピル氏が刃物で刺されて亡くなった。
その夜の梨泰院は、いつものように賑わっていた。1990年代の梨泰院は、ソウルの中でも特別な街だった。近くには在韓米軍の基地があり、外国人と韓国人、観光客と商店主が入り混じって、夜遅くまで灯りの消えない通りだった。英語が韓国語と同じくらい自然に飛び交い、異なる国籍と文化が狭い路地の中でぶつかり合う場所。その活気の真ん中で事件は起きた。
チョ氏は友人と一緒に梨泰院を訪れ、そのハンバーガー店のトイレに入った。そして二度と歩いて出てくることはなかった。狭いトイレの中で彼は何度も刃物で刺され、まもなく息を引き取った。
ありふれた夜だった。22歳の大学生にとって、ただ友人と過ごし、少しトイレに立ち寄っただけの夜だった。

部屋にいた二人
トイレの中と外には、もう二人の若者がいた。アーサー・ジョン・パターソンとエドワード・リー。二人とも当時18歳前後の、アメリカ国籍を持つ若者だった。
パターソンは在韓米軍と関わりのある家庭で育ったアメリカ市民で、エドワード・リーはアメリカの市民権を持つ在米韓国人だった。二人はその夜、梨泰院で一緒に過ごしていた間柄だった。事件が起きる直前、彼らはチョ氏と同じトイレの中と外に一緒にいた。
問題はここから始まった。密閉されたトイレという空間、そして直接目撃した第三者の不在。チョ氏を刺したのは、間違いなくこの二人のうちのどちらかだった。しかし、どちらなのかを明確に判別してくれる目撃者がいなかった。
そして二人は、最初から最後まで互いを指さし続けた。

「俺じゃない、あいつが殺した」
捜査が始まると、二人の供述は真っ向から食い違った。
パターソンは「エドワード・リーが刺した」と言った。エドワード・リーは「パターソンが刺した」と言った。二人は互いが刃物を持っていた、相手がチョ氏を襲ったと主張した。一方が真実を語っているなら、もう一方は嘘をついていることになるが、その境界を明確に引いてくれる物証は十分ではなかった。
こうした相互の名指しは、捜査と裁判において最も扱いにくい状況の一つだ。二人が同じ現場にいて互いを犯人だと名指すとき、検察と裁判所は、誰の供述がより信用できるのか、物証が誰を指しているのかを一つ一つ検討しなければならない。そしてその判断が揺らげば、真犯人でさえ処罰を逃れる隙が生まれる。
梨泰院のあの夜が長く迷宮となった第一の理由が、まさにこの相互の名指しにあった。


最初に法廷に立った男 — エドワード・リー
捜査機関は二人のうちエドワード・リーを殺人容疑で起訴した。パターソンには、刃物の所持や証拠隠滅など比較的軽い容疑が適用された。
一審の裁判所はエドワード・リーに有罪を言い渡した。無期懲役だった。控訴審でも有罪の判断は維持され、刑量は懲役20年に調整された。ここまで見れば、事件はエドワード・リーという犯人を見つけて幕を下ろすかに見えた。
しかし1998年、大法院(韓国の最高裁判所)の判断は違った。
大法院は、エドワード・リーを有罪とするには証拠が不十分だと判断し、事件を再び審理するよう差し戻した。改めて開かれた裁判で、ソウル高等法院は1998年、エドワード・リーに無罪を言い渡した。検察は再び上告したが、大法院は1999年、この上告を受け入れなかった。エドワード・リーの無罪が最終的に確定したのである。
ここで明確にしておかなければならないことがある。エドワード・リーは、大法院で無罪が確定した人物だ。彼が犯人だという判断は、法的に成立しなかった。この記事は彼を有罪と断定しないし、その根拠もない。法が下した結論は一つだ ——彼を殺人犯とみなすには証拠が不足していた、ということである。
問題は、ではチョ・ジュンピル氏を刺したのは誰か、ということだった。部屋には確かに二人がいた。一人が無罪なら、残るのはもう一人だった。

検察の失策、そして太平洋を渡った逃亡
エドワード・リーが無罪で釈放される間に、もう一人 —— パターソンはすでに韓国を離れつつあった。
パターソンは殺人ではなく、証拠隠滅や刃物の所持などの容疑で比較的短い刑を言い渡され、服役した。ところが服役中に特別赦免などで釈放され、その後、彼は韓国の外へ出られないよう出国禁止の状態に置かれていた。
ここで取り返しのつかない失策が起きた。検察がパターソンに対する出国禁止の期間を適時に延長しなかったのだ。行政処理の空白が生じたその隙を突いて、パターソンは1999年にアメリカへ出国してしまった。唯一残った容疑者が、韓国の司法の手が届かない太平洋の向こうへ消えたのである。
一人は無罪で釈放され、もう一人は国外へ逃げた。チョ氏を刺したのはその二人のうちのどちらかであることは明らかなのに、どちらも殺人罪で罰せられないまま、事件はそのまま凍りついた。
この検察の出国禁止をめぐる失策は、後々まで批判された。たった一度の行政上の誤りが、遺族に十数年もの待ち時間を強いる結果につながったからだ。


凍りついた歳月
パターソンが去った後、事件は長い間止まっていた。
遺族にとっては耐えがたい時間だった。息子が梨泰院のトイレで命を落としたのに、その部屋にいた二人のうち誰一人として殺人罪で罰せられなかった。一人は無罪となり、もう一人は検察の失策で国外に消えた。真実は確かにどこかにあるのに、その真実に近づく道が閉ざされていた。
チョ・ジュンピル氏の両親は、息子の死をそのまま埋もれさせることはできなかった。彼らは長い歳月にわたり、事件の再捜査とパターソンの送還を求めて闘い続けた。国を相手に、忘れられていく事件を相手に、そして流れゆく時間そのものを相手にした闘いだった。

映画が再び呼び起こした事件
忘れられかけていたこの事件を再び世の中に引き出したのは、意外にも一本の映画だった。
2009年、この事件をモチーフにした映画が公開された。トイレという密閉された空間で起きた殺人、互いを指さす二人、そして真犯人を特定できなかった司法の無力さ。映画は、実際の事件が投げかけた問いを再び大衆の前に差し出した。あの部屋の中で一体何があったのか。なぜ誰も罰せられなかったのか、と。
映画が呼び起こした関心は世論となり、世論はやがて捜査機関を動かす圧力となった。忘れられかけていた事件が再び水面に浮かび上がった。遺族の長い闘いに、大衆の関心が力を添えたのである。

国境を越えた追跡 — 犯罪人引渡し
再び火のついた関心の中で、韓国の捜査機関は事件の再捜査を始めた。そして太平洋の向こうにいるパターソンを連れ戻すための、長く複雑な手続きに入った。
それが「犯罪人引渡し(extradition)」だ。ある国で罪を犯した人物が別の国へ逃げたとき、その人物がいる国へ身柄の引渡しを正式に要請する国際的な刑事協力の手続きである。二国間に犯罪人引渡し条約がなければならず、相手国の裁判所が引渡しの要件を審査して許可しなければならない。その過程で当事者がそれを争う訴訟を起こすこともある。国境を越えた正義の執行は、一国の中で犯人を捕まえるのとは比べものにならないほど長い時間がかかる。
韓国はアメリカに、パターソンの犯罪人引渡しを請求した。パターソンは2011年にアメリカで身柄が確保され、その後、アメリカの裁判所で引渡しの是非をめぐって争う手続きが続いた。数年にわたる法廷での攻防の末、ついに結論が出た。
2015年9月、パターソンは大韓民国へ送還された。彼がアメリカへ逃げてから16年、事件が起きてから18年ぶりのことだった。

再び開かれた法廷
送還されたパターソンは、今度は殺人容疑で韓国の法廷に立った。十数年前のあの夜、梨泰院のトイレで起きたことをめぐって、再び裁判が始まった。
この裁判では、その間に積み重ねられた資料と、新たに検討された証拠が扱われた。現場の状況、二人の食い違う供述、そして長い歳月をかけて整理された事実関係が、法廷で改めて検証された。
2016年1月、一審の裁判所はパターソンに有罪を言い渡した。懲役20年だった。裁判所は事件の重大性に照らして重い刑が相当だと見ながらも、犯行当時パターソンが満18歳に満たない未成年だったことを考慮して刑を定めたと伝えられている。
パターソン側は控訴したが、控訴審もまた有罪の判断を維持した。そして2017年1月、大法院はパターソンに懲役20年を言い渡した原審を確定させた。
「20年ぶりの断罪」だった。1997年のあの夜から、そして遺族が闘い続けてきた長い歳月から数えて。


なぜ正義はこれほど遅く来たのか
パターソンの有罪が大法院で確定したことで、長く迷宮に陥っていたこの事件は法的に終止符を打った。しかし、その終止符に至るまでにかかった歳月は、いくつもの重い問いを残した。
なぜこれほど長くかかったのか。部屋に二人がいて、その二人のうちのどちらかが犯人であることは明らかだったのに、なぜ長い間、誰も殺人罪で罰せられなかったのか。
第一は、相互の名指しという落とし穴だった。二人が互いを指さす状況で、それを明確に判別する物証が不足すれば、真実は容易にぼやける。第二は、検察の出国禁止をめぐる失策だった。唯一残った容疑者を留め置くことができた最後の扉が、たった一度の行政上の誤りで開いてしまった。その一度の過ちが、十数年の歳月を飲み込んだ。
そしてこの事件は、国境を越えた犯罪を処罰することがいかに難しいかを示している。犯人が別の国へ逃げた瞬間、正義は二つの国の法と条約と外交の迷路を通り抜けなければならない。その迷路を最後まで歩き抜けさせた力は、何よりも遺族の諦めない闘いだった。


残された名前、チョ・ジュンピル
このすべての物語の中心には、22歳で命を奪われた一人の人間がいる。
チョ・ジュンピル氏は、ただ友人と過ごし、梨泰院のトイレに立ち寄っただけだった。彼が何を間違えたのかと問うことは無意味だ。彼は何も間違っていない。ただその夜、その場所にいただけである。
法は19年かけて犯人に有罪を言い渡した。しかし、どんな判決も、どんな刑量も、22歳で止まってしまった一人の人生を取り戻してはくれない。遅ればせながら真実が明らかになり、犯人が罰せられたのは、遺族がその長い歳月を耐え、闘い続けた結果だった。しかしその闘い自体が、息子を失った両親が背負わなければならなかったもう一つの刑罰でもあった。
私たちがこの事件を記憶すべき理由は、正義がついに届いたという事実だけにあるのではない。その正義が、あまりにも遅く、あまりにも困難な形で届いたという事実にもある。


写真: Wikimedia Commons, CC BY 4.0
年表を清書していて、私が何度も指を止めた行がある。一九九九年、出国禁止の期間が更新されないまま切れた日。事件当日でも、判決の日でもない。誰も声を上げず、誰の記憶にも残らない、書類の日付が一つ過ぎただけの日である。その一行の下に、十六年分の空白が続く。刃物より短い時間で人が消えることもあれば、判子一つ押し忘れた紙が十六年を持っていくこともある。
まとめ
一つの部屋に二人がいた。一人は殺され、残った二人は互いを指さした。一人は証拠不十分で無罪となり、もう一人は検察の失策で国外へ逃げた。そして長い間、誰も殺人罪で罰せられなかった。
真実が国境を越えて戻ってくるまでにかかった時間は19年。映画が事件を再び呼び起こし、犯罪人引渡しという国際協力が逃亡した容疑者を連れ戻し、何よりも遺族の疲れを知らない闘いが、このすべての過程を最後まで押し進めた。
梨泰院殺人事件は、韓国社会にさまざまなことを問いかけた。相互の名指しを前に真実を見分けることの難しさ、たった一度の行政上の失策が招いた取り返しのつかない結果、そして国境を越えた正義がいかに遠く険しい道であるかを。それらの問いは、今なお有効である。
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この記事には、事件現場一帯の今日の実際の写真と、物語の雰囲気を伝えるために制作したAI生成画像がともに使われている。実景写真は事件当時を撮影したものではない。





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