一家四人を殺し、そして彼は立ち去らなかった。
このただ一つの事実が、四半世紀にわたって日本を捉えて離さない。2000年の最後の夜、一人の侵入者が東京の公園の縁に建つ小さな二階家に入り込んだ。三十分ほどのうちに、四人が命を落とした。そして彼は、短ければ二時間、長ければ十時間ほどをその家の中で過ごした。自分の傷を手当てした。冷蔵庫を開けて食べた。一家のパソコンの前に座った。朝が来たとき、彼は消えていた。刑事が望みうるほとんどすべてを残し、そして逮捕につながるものは何一つ残さずに。

公園のそばの一家
宮澤家は、東京西部・世田谷区の静かな住宅街、上祖師谷に暮らしていた。その家は祖師谷公園のすぐ縁に接して建っていた。2000年の暮れ、この公園は小さな係争のただ中にあった。市が公園を広げようとし、境界に残るわずかな家々が一軒また一軒と立ち退きになりつつあったのだ。宮澤家の家は、最後まで残った家の一つだった。
家族は四人だった。一家の主・宮澤みきおは四十四歳、コンサルティング会社に勤めていた。妻の泰子は四十一歳、近所の子どもたちを教えていた。娘のにいなは八歳、息子の礼は六歳だった。どこから見てもごく平凡で、人に好かれる家族だった。夜は宿題と食事、子どもたちの早い就寝でめぐっていく、そんな家庭だった。
隣には、泰子の母と姉の一家が、つながった二軒に暮らしていた。この近さがこの物語で重要になる。発見がこれほど早かった理由でもあり、その一家の一人が、その後二十五年にわたってこの事件を忘れさせまいとした理由でもある。

一年の最後の夜
犯行は2000年12月30日の夜から31日未明にかけてと推定されている。捜査員は、侵入者が家の裏手、暗い公園に面した二階の浴室の、施錠されていない小さな窓から入ったとみている。その窓に届くために、彼は塀を越え、屋外の室外機を足がかりに身を引き上げたと推定される。
彼は階段を下り、眠る家の中へ向かった。みきおは一階にいた。泰子と二人の子どもは上階、一家が寝ていたロフトにいた。そのあと起きたことは、わずか数分の出来事であり、その詳細はここで立ち入る必要のないほど凄惨だ。日付が変わって間もなく、宮澤家の四人は皆、息絶えた。
しかし侵入者も無傷ではなかった。犯行の途中のどこかで、彼は自分の手を切った。血を流すほど深く、その血が現場に混じるほどに。この一つの傷が、奇妙にも、事件全体で最も重要なものになる。彼のDNAが記録に残ることになったのは、まさにこの傷ゆえなのだ。

彼はとどまった
ここで、この事件は悲劇から、より奇妙な何かへと移っていく。
たいていの殺人者は逃げる。この男は逃げなかった。家族が息絶えたあと、何時間ものあいだ、彼は家の中にとどまった。捜査員は彼が残した痕跡から動線を再構成したが、その光景は、その落ち着きゆえにいっそう薄気味悪い。
彼は浴室へ行き、傷ついた手を手当てして、血のついた包帯を残した。冷蔵庫を開け、思うままに取り出して食べた。複数の報道によれば、メロンと、小さな容器に入ったアイスクリームがいくつも取り出され、食べられていた。飲んだ。トイレを使い、鑑識が分析できる排泄物を残した。そして記録では未明の一時十八分、一家のパソコンがインターネットに接続した。数分間つながったのち、ふたたび静かになった。
想像してみてほしい。小さな家の中に四人が死んでいる。そしてその四人を殺した者が、その家の台所に、そのパソコンの前に座り、暗がりの中で彼らのアイスクリームを食べている。彼は少しも急いでいなかった。その数時間、彼はまるでその家が自分の家であるかのように振る舞った。
なぜそうしたのか、誰一人、納得のいく説明をできていない。

朝
彼らを見つけたのは、隣のつながった家に暮らしていた泰子の母だった。12月31日の朝、一家と連絡がつかず、彼女は渡って家の中に入った。そこで見たものを、彼女はただちに通報した。駆けつけた警察の前に置かれたその現場は、どのような形であれ、彼らの残りの職務人生をずっと縛りつけることになる。
そして現場を一つひとつ記録し始めるうちに、捜査員たちは、この事件が日本で最も容易に解けるはずの事件であることに気づいた。
犯人が、ほとんどすべてを残していったのだ。

十分だったはずの証拠
捜査員は驚くほど多くの物証を確保した。似たようなどの事件でもめったに見られない量だった。彼はナイフ、マフラー、シャツ、ジャケット、帽子、手袋、ハンカチ二枚、そして黒いヒップバッグを残した。靴を残した。家じゅうに指紋を残した。血を残し、その血から完全なDNAプロファイルが得られた。
たいていの犯罪なら、このうちの一つだけでも事件は割れる。ところがここでは、警察がそれらを一度にすべて手にしていた。それでも、たぐる糸のことごとくが壁へと通じていた。
指紋は日本のどのデータベースの誰とも一致しなかった。DNAも、記録上一致する者はいなかった。彼が誰であれ、彼は逮捕されたことも、指紋を採られたことも、システムに入ったこともなかった。鑑識の観点からすれば、彼は幽霊だった。鮮やかに記録されていながら、まったく正体のわからない存在。

ヒップバッグと砂
黒いヒップバッグは、この事件で最も有名な謎の一つになった。その中と表面から、鑑識班は細かな砂の痕跡を見つけた。
その砂を分析した結果は、捜査を思いがけない方向へ導いた。複数の報道によれば、その砂粒は鉱物学的にアメリカ西部の砂と一致した。具体的には、カリフォルニアとネバダにまたがる、大規模な空軍基地に近い砂漠地帯の砂と推定された。別の痕跡は、日本のある地点と一致した。はるか遠いアメリカの砂漠の砂が、どうやって東京の一軒の家の中のヒップバッグに残ることになったのかは、ついに説明されていない。犯人がそこを訪れたのか。バッグが。それを扱った誰かが。どの答えも、閉じるより多くの問いを開く。

靴
そして靴があった。
スポーツブランド、スラセンジャー(Slazenger)の1998年製の一足だった。ブランドそのものは日本でありふれていたので、本来なら行き止まりになるはずだった。しかし犯人が履いていた特定のサイズ、約28センチは、捜査員によれば、事実上韓国だけで製造・販売されたサイズだった。日本でもこのブランドは売られていたが、そのサイズではなかった。
この細部が、この事件で最も根強い推測の一つを生んだ。犯人が靴を韓国で手に入れたか、韓国と何らかのつながりを持っていたのではないか、というものだ。ほかの手がかりと組み合わさって、この男はありふれた地元の強盗などではなく、国境をまたぐ足取りを持つ何者かだ、というより広い仮説を育てた。警察はそのいずれも確定したことはない。靴は、これまでもずっとそうであったままだ。誰にも完成できない物語にぴたりとはまる、一つの焦れったいサイズとして。

DNAの中の男
彼が残した血から、鑑識の科学者たちは犯人の肖像を描き出した。その肖像は、謎をいっそう深めるばかりだった。
DNAは男性を示した。分析は、変わった血筋をうかがわせた。複数の報道によれば、母系に欧州系、父系に東アジア系を指し示す標識が現れたという。日本では目を引く混血の背景だった。現場の物証から、警察は痩せた体格、約170センチの身長、右利きと推定した。鑑識の分析によれば、彼は家にとどまる直前かその最中に、ごまや特定の野菜を含む食べ物を口にしていたとみられる。
長年、警察は犯行の性質から、彼がかなり若かった可能性を考えていた。十代か二十代前半の男として。近年の再検討では、その推定は上方修正され、捜査員は今、彼が当時少なくとも三十代にはなっていたとみている。実のところ、このプロファイルはつねに顔ではなく輪郭を描いてきた。犯人について多くを語りながら、彼が誰なのかはまったく語らない。

すべての糸を、たどって
この事件が未解決のまま残っているのは、努力が足りなかったからではない。
歳月とともに、世田谷事件の捜査は日本史上最大級のものへと膨らんだ。累計で動員された捜査員数は数十万人規模にのぼり、一万二千点を超える証拠が記録された。衣服はたどられた。犯人のシャツは、わずか百三十着ほどしか製造されなかったとされ、そのうち特定できる少数の購入者にまで追跡が及んだ。彼の衣服とナイフは神奈川県へたどられた。刑事たちは砂を、靴を、DNAを、繊維を、彼が家の中で過ごした時間の順序を追った。彼が残したあらゆる物的な糸を。
そしてすべての糸は、どこかへ通じたのち、途切れた。証拠はあふれている。ただ、その証拠が指し示す道が、一人の人間に届く直前で断たれるだけなのだ。

なぜこの事件は日本を捉えて離さないのか
未解決事件はどこにでもある。だが、この事件のように一国を捉えて離さないものは少ない。
一つには、その核心にある矛盾だ。これほど多くの証拠を残した犯人が、ついに見つからないこと。これだけの鑑識情報がある事件は、未解決のまま残るはずがない。閉じることを拒むこの事件は、ほとんど嘲りのように感じられる。
もう一つは、彼のしたことの奇怪さだ。犯行そのものだけではない。そのあとの数時間、暗がりの中のアイスクリーム、あの落ち着き。それは大半の人間がついていけない精神をうかがわせ、その「わからなさ」自体が一つの恐怖である。
そしてもう一つは、あの家だ。あの家は今も公園のそばに建っている。警察がこれまでずっとそうしてきたように犯行現場として保存し、枯れた冬の木々の陰で老朽していく。老朽して危険だという判断から解体の計画があったが、その計画は遺族の反発にぶつかった。事件の最後の物的な痕跡が消されることを望まなかったのだ。毎年12月、事件の命日がめぐるたびに、警察はあらためて情報提供を呼びかけ、花を手向ける。二千万円の懸賞金は今も掛けられたまま、持ち主を見つけずにいる。犯人のDNAはファイルの中に座り、ついに来ない一致を待っている。

忘れまいとした姉
その歳月のあいだずっと、一つの声がこの事件を静かにさせまいとしてきた。
隣のつながった家に暮らしていた泰子の姉は、事件からの歳月を、この事件を忘れさせないことに捧げてきた。捜査が続くよう働きかけ、公の場に立ち、時には家族や事件を誤って描いたと感じた報道に強く抗った。ある放送が根拠のない、傷つける仮説を掲げたとき、彼女は正式に異議を申し立てた。彼女の粘り強さは、ある意味でこの事件の良心だった。鑑識の謎の背後に実在する四人がいて、四半世紀にわたって答えを待ち続けてきた一家がいることを思い起こさせる。
警察のファイルと同じくらい、その粘り強さゆえに、宮澤という名は今日もなお日本で口にされている。

毎年冬に巡ってくる呼びかけ
毎年、12月30日が巡ってくると、この事件はふたたび浮かび上がる。
警察は情報提供の呼びかけを新たにする。懸賞金があらためて示される。刑事たちは今もこのファイルに取り組んでいる。DNAが数十年前の事件を解いてきた時代に——犯行が起きた当時には存在すらしなかったデータベースや系譜を通じて、ついに一致を見つけ出す時代に——世田谷事件の犯人の完全な遺伝子プロファイルは、おそらくこの事件の最大の希望である。それは完全に解読されたまま、いつか未来のどこかの記録にその片割れが含まれる日を待っている。捜査員はその希望を公然と語ってきた。2000年に彼の名を明かせなかったその科学が、まだ来ぬどこかの年に、彼の名を明かすかもしれない、と。

遠くを過ぎる電車
今日、あの公園の近くに立てば、その界隈はごくありふれている。夕暮れに遠くを電車が過ぎる。窓に明かりがともる。子どもたちが下校していく。そして、その緑の縁に、誰も住まない家がある。部屋はそのときのまま、その沈黙とともに守られている。
二十五年は、宮澤家の隣人だった子どもたちが、今は自分の子を持つほどの歳月だ。最初にあの家に足を踏み入れた刑事たちが退職するほどの歳月だ。事件が見出しから歴史へと移るほどの歳月だ。それでも、その核心は解けない。一人の男が東京の一軒の家に指紋と血と衣服と靴とDNAを残し、名もないまま一億の人口の国の中へ消えた。

空き家が守っているもの
ある犯罪は、その暴力によって人を戦慄させる。この事件は、その後によって戦慄させる。死者で満ちた家の中でくつろいでいた一人の男の姿によって、そして答えだけを除いたすべてを残した事件の、解けない算術によって。
おそらくそれが、あの家がいまだにそこにある理由だ。その壁の中に誰も見つけていない手がかりがあると警察が信じているからではなく、その家を取り壊すことは、誰も閉じようとしない扉を閉じることだからだ。その家が建っているかぎり、事件は終わっていない。DNAがそのファイルの中で待っているかぎり、扉はまだわずかに開いている。
どこかで、2000年の最後の夜にあの窓から入り込んだ男が、まだ生きているかもしれない。彼は今、老いているだろう。彼はその細胞の中に、自分を名指しできるただ一つのものを抱えている。そして毎年12月、東京の静かな片隅で、公園のそばの一軒の家が、彼が見つかることを、寒さの中で待っている。





